「あたしゃ理想とまずい飯は苦手でね。」
藤枝梅安/仕掛人 藤枝梅安
それは綺麗ごとです
「それは綺麗ごとです」
就労移行支援をするようになってから、しばしばこの言葉を使うようになりました。
いやな言葉です。
理想と現実がかけ離れている。人の世は常にそうだと思います。
だからこそ、過ちを繰り返しながら、綺麗ごとを実現している。だから人間は素晴らしい。
果たして、それは”善”なのでしょうか。
(自分は驕っている)
(自分は奢っている)
少しずつ教養を身に着け、技術力に自信がつくにつれ、自分が鼻持ちならない人間に感じるときが増えました。
確かな結果を出し、利用者さんから感謝の言葉をいただく。
ですが、以前から自分の仕事の存在に疑問を感じています。
そもそも社会に問題があるから、福祉が存在する。
世の中には救いようのない人がいる?
世の中には救いようのない人がいる?
”救う”
この言葉にいつも違和感を感じていました。
福祉の仕事をしているとき、確かに救われたような人をたくさん見ました。
ただ、ひとが救われるかどうかは、結局その人次第なんだ。人が他人を救うことはできない。
そう思います。
それに…
”救われた”と思う人を見たとき、果たしてその人は本当に救われたのでしょうか?
他人に期待するのは、他人の自由を奪うこと
他人に期待するのは、他人の自由を奪うこと
最近その言葉を聞いて、ハッとしました。
期待通りの反応が返ってきたから、その人に親しみを感じる。
期待はずれな反応が来て、その人に失望する。
過度な期待は、人の権利を侵害していることもあるんじゃないでしょうか。
善人であれというのは、主観的な期待
善人であれというのは、主観的な期待
以前から”善”という言葉に違和感を感じていました。
善悪を価値基準とする物差しを道徳というのでしょう。
その道徳は、ある程度の多数派の好き嫌いなんじゃないの?
素直に物事を見たとき、そこにあるのはただの好き嫌い、感情、主観。
正直言って、そう思うんです。
人を傷つけないと生きていけない人がいる
人を傷つけないと生きていけない人がいる
それは快楽犯罪といった、個人の嗜好の問題を言いたいのではありません。
軍人
この仕事は、きっと人を傷つけることが仕事になるときが多いでしょう。
「誰かを守るためだ」
ええ。ですが、人を傷つけることが仕事です。
大事なヒトを守るために仕方がないなんて、僕にはきれいごとです。
当たり前です、傷つけたヒトにも大事なヒトがいますから。
仕事ですから
仕事ですから
そう、仕事だから仕方がない。
仕事より尊厳が大事というのは、ほとんどの場合きれいごとです。
家族を養うため、大切なものを守るため、他人を傷つける。
生物の業というものは、避けて通れない現実です。
たぶん誰も傷つけない優しい世界は理想なんでしょう。
完全な平和というものは、理想なんじゃないかな。
タカとハトが手を取り合う世界
タカとハトが手を取り合う世界
諍いと友愛の融和。
歴史上平和を訴えたヒトは数多く存在します。
名のある偉人といわれた人も、名もなき弾圧された市民たちも、みんな平和を切望したんだと思います。
一方で、それは争いを望むマイノリティーを排除したのかもしれません。
マネジメントは善と悪を統制すること
マネジメントは善と悪を統制すること
管理職になって気づいたことは、マネジメントをするときに悪いことを受け入れる必要があるということです。
明らかなミス、怠慢による事故、加害者を守ること。
ありえない悪を受容することも、マネジメントには要求されます。
そして思うことは、悪を受容してはじめてできることが社会には数多く存在するということです。
幸い巨悪というような悪を受容する機会には遭遇していません。
ですが、約束を果たすためには、悪を憎まない心、悪を受容する懐を持つことは必須だと思うに至りました。
人は善ではない。悪でもない。
人は善ではない、悪でもない。
今となっては当たり前のようにそう考えている自分がいます。
重犯罪者の方を支援していた時、僕のこころにはその方への慕情がありました。
「昔のこと覚えてたら、うなされて眠れんわ」笑いながそう語る、生活保護受給者の方のお話に、僕は目を輝かせて耳を傾けていました。
そこにあったのは、嫌悪でも敬意でもなく、ただ人に対する興味だけでした。
道徳とはきれいごと
道徳とはきれいごと
道徳とは、一つの物差しを人に強いる教育だと思います。
人としてあるべき姿。
それは、たくさんの人にとって生きやすいルールなのかもしれません。
それは、数少ない”悪人”の自由を奪う期待なんじゃないでしょうか。
その”悪人”は、不公平だと思いながらも、話を聞かない”善人”に憎しみを募らせているかもしれません。
ヒトは良いことをしながら悪いことをしている矛盾した存在
ヒトは良いことをしながら悪いことをしている矛盾した存在
ぼくの好きな小説「仕掛け人 藤枝梅安」で繰り返し語られた言葉です。
とても好きな言葉です。
自分のちっぽけな裏切りを認められなかった少年時代、まれにこの言葉を思い出したような気がします。
平和で民主的な世界。
僕はそんな理想を求めている。
一方で、それは僕の嫌いな、他人を傷つけるウソツキたちを排除する世界。
その世界が実現した時、”悪人”たちは居場所を失い、死ぬことになるかもしれない。
嫌いな人が死ぬことで成立する世界は、”正しい世界”なんでしょうか。
ヒトに”悪人”を殺す権利が本当にあるんでしょうか。
誰かを犠牲にすることで手に入れる理想は、何か根本的に間違っているんじゃないのでしょうか?
「それは綺麗ごとです」
「それは綺麗ごとです」
ぼくと同じ、平和で正直であろうとする”善人”は、僕にそういうかもしれない。
ぼくが生きている間の社会において、きっと平和は大きな犠牲のもとに勝ち取るものなんだと思う。
これから先、何十年、何百年も先、いつか世界に平和が実現した時。
その世界で、権力や欲望をほしいままにむさぼる悪人に居場所はあるのでしょうか。
その世界において、悪人は、悪人として認識されていない。
その世界において、悪人は、悪人として認識されていない。
もしそうだったら、戦争と平和も、なくなっているかもしれない。
諍いと友愛の融合は、僕にはまだ、想像できないけれど…